東京オリンピック1964
1964年の東京オリンピックは、保育園のお寺で見た。当時テレビのある家は少なく、大勢の人が寺に来て開会式を正座して見ていたような記憶がある。
何かすごいことなんだ。と大人たちの間をわってテレビの画面に集中!のモモではあったが、なんだか兵隊さんが行進しているだけのようで、飽きてしまった。
オリンピックの影響がいろいろな所にあらわれた。
当然、保育園の子供たちの中にも。皆の遊びが急に活発になった。というか危険な遊びが増えた。それまでは、お砂場はお砂場遊びの為にあったのが戦いの場になっていった。
お寺の保育園なんだから、鐘つき堂があって当りまえなのだが、なんと都合よくお砂場はその下にあった。「あそこから、砂場の一番遠くに飛んだ子が金メダルや!やるもんこの指とまれ。」みんな我も我もと名のりをあげ、つぎつぎとその競技に挑んでいく。
すると、「やっぱ、女はあかんなあ~。誰もやらんのか?」と快活に男の子の声が聞こえた。「女だって飛べるわ!」と言ったあとで後悔しているモモがいた。「飛んでみい。」砂場の子供たち皆の視線が集まる。誰一人止める者などいない。
鐘つき堂に上がって下の砂場を見た瞬間、(タカーい)その時から高所恐怖症というものを知った。(後へは引けぬ)勇気をふりしぼって「えい!」着地成功。「モモちゃんすごい!」豚もおだてりゃ木に登る。「こんなの何回でもできるわ!」と取り巻きの女の子たちの間をぬってまたチャレンジしようとしたその時、「あんたらなにしとるのー!」クモの子を散らすように皆逃げ出した。私の母だった。
母は体中を砂を払うように軽く叩いて「何ともないかい?」とだけ言って職場にもどった。しっかりと見られてた。
その日の帰り道母はなかなかお話してくれなかった。気まずかった。
急に母が小さな川の土手に道を変更したので、とことこついていくと母は立ち止まって「あそこが達ちゃん家。」と指をさした先に、前に住んでいた家が見えた。「モモちゃん、あんたは負けん気がつよか。今度鐘つき堂から飛んだら手術したとこから割れて、赤い血がいっぱい出るかも知れんよ。」それだけ言うと川沿いに家路に向かった。
(お腹がわれて真っ赤な血)想像しただけでぞっとした。その晩、父と鼻歌でお風呂に入っていつものように体を洗っているとき、お腹の手術の後をみて(われませんように)とおまじないをかけてモモの東京オリンピックは閉幕した。
ももちゃんが金メダルだったねえむさんのブログを見てると私も幼稚園時代を思い出します…八戸幼稚園まだあるのかなぁホントにステキな幼稚園でした
投稿: ようちゃん | 2009年9月 3日 (木) 07時53分
その頃のこと意外と覚えてるでしょ。
ようちゃんのお子さんはどうでしょうね。お手紙くれた子はまだ小さいですよね。インフルエンザ気を付けてあげてください。
投稿: momoMsato | 2009年9月 3日 (木) 10時18分